Sweet sorrow  3





クラブハウスの前まで早足で歩いてきた不二はそのドアの前で少し躊躇するように足を止めた。

もしかしたら大石と菊丸がまだ中にいるかもしれない。

先ほどの菊丸の様子を見ている不二としては邪魔はしたくない。

しかし、だからといって荷物を持って帰らないわけには行かない訳で。

「・・・大石、英二、いる?」

・・・少しのためらいの後、軽い深呼吸をしてからそう声をかけ、不二はそっとクラブハウスのドアを開ける・・・

「・・・大石達なら先に帰った。」

意に反して中から返ってきた静かな声に不二はちょっと目を見開いた。

「・・・手塚。」

ユニフォーム姿のままベンチに腰掛けている彼を、不二はちょっと笑って眩しげに見た。

「まだ、帰ってなかったんだね。」

「ああ。」

相変わらず彼の言葉は少ない。でもそれはいつもの事なので不二はさして気にもせず笑って続ける。

「気合いを入れるのもいいけど、あまり根を詰めないようにね。」

先ほどの大石の言葉を思い出しながらも、そう付け加える。

「大切な試合前なんだし。」

「・・・わかっている。」

静かな威厳のある声。それはいつも聞きなれているいつもの声であって、なかった。

 “まただ、この違和感・・・”

「ねぇ、手塚。」

・・・少し迷った挙句、不二は慎重に口を開いた。

「どうかしたの?・・・なんか最近、らしくないんじゃない?」

そう言った後、少しおどけて付け加える。

「何か、気になることでもあるの?」

冗談めかして聞いてはみたが、それはずっと気になっている事だった。

 

昨夜、手塚の様子を窺うつもりで彼宛に打ったメール。

さり気ない内容にしたものの、その自分からのメールがきっかけになり、手塚にあの事が露見したら、と、それを破棄し、代わりに大石に電話をしたのだ。

怪我の事は問題ないはずだ。

それ以外に彼は何が気になっているんだろう?

 

「・・・理由はお前も知っているんだろう?」

思わぬ切り返しに不二が目をしばたく。

「理由っ・・・て?」

「オレの・・・腕の事だ。」

“!”

その言葉に、不二の背中に冷たいものが走った。

自分がそれを知っていると手塚が知っているわけはない。一瞬、大石の事が頭をよぎったが、大石は信用するに足る人間だ。彼が言った事に間違いはないと不二は思い直し、努めて冷静に手塚を見つめる。

「何の事?」

「とぼけなくてもいい。」

手塚は静かに不二を見ている。

「大石にオレの腕のことを言ったのは、お前だな?」

「・・・・・」

不二は無言で手塚を見る。

「気付いた事、何故オレに黙っていた?」

それは確信に満ちた声で、不二は隠し通すことの無駄を悟る。

「・・・いつから気付いていたの?」

・・・ややあって不二は軽くため息をついてからそう口を開いた。

「最初からだ。」

その手塚の言葉に不二は目を見開く。

「奴に腕の事を言われた時からそう思っていた。大石に気付く事は無理だ。」

「・・・そう・・・」

不二は打ちのめされた気持ちで再びため息をつく。

彼に気を使っていたつもりが逆に使われていた事に少なからず衝撃を受け、でも・・・

「・・・何を焦っているの?手塚?」

少しの間の後、不二は静かに手塚に聞いた。

「君の腕はもう問題ない、そう言われたんだろ?部の気力だって充実している、それなのに一体、何を・・・」

「治ったとは言われたが完全ではない。」

そんな不二の言葉を手塚が遮る。

「長時間のプレイは禁物だ。そう医者に言われた。」

そう言って手塚が眉を寄せる。

「相手は全国だ・・・長丁場にならないテニスなどありえん、そうだろう?」

手塚の重苦しい言葉に不二が軽く眉を寄せ、でも・・・

 「大丈夫だよ。」

軽く息を吐き出して、そう不二が口を開く。

「・・・言っただろ?前にも」

すっ・・・と手塚の肩に置かれる不二の手。

 「何もかも自分で背負うのは君のいい所だけど、悪い所だって。」

不二は微笑し、手塚を見て。

 「・・・君は、ひとりじゃないんだよ・・・」

・・・しかし、その言葉に手塚の表情が緩む事はなく、彼はそのまま自分から顔を背ける。

その拍子に彼の肩から滑り落とされた自分の手。

その手塚の行動に不二は哀しげに眉をひそめる。

“・・・やっぱり、僕では伝わらない・・・”

どうしていいのかわからず不二はただ途方にくれる・・・

「不二、お前に聞きたい。」

・・・そんな不二に手塚が問い掛けてきた。

「お前にとって全国は昔ほどの価値があるのか?」

「え?」

「昔、お前はオレに強くなりたい、そう言ったな。全国を目指したい、とも。・・・でも、お前はもう自分の目的を果たしたんじゃないのか?」

手塚に言われている意味がわからず目をしばたく不二に重ねて手塚が言う。

「お前の探していたものはもう見つかった、そうじゃないのか?」

「!」

不二の右手がびくり、と震え、手にしたプリントが微かに音を立てる。

「・・・何を言っているの、手塚?」

 「お前が昔言っていた事だ。忘れたわけではないだろう?」

手塚がそんな不二に冷ややかにそう言う。

「それが、お前の目的の全てだったんだろう?・・・違うのか?」

その言葉に不二の目が見開かれる。そして手塚を凝視して。

 

息詰まるような、張り詰めた沈黙が二人の間に降りる・・・

 

 「・・・君はそんな目で僕を見ていたんだね。」

ややあって不二が手塚から視線を流すと、ぽつりと言った。

 「道理で、君が僕を遠ざけようとするはずだ。」

呟くような声でそう続けると不二は深いため息をついた。

 

全国へ行く・・・手塚が誰よりもその夢を大切に持っている事を自分は知っていた。

そして、自分も少なくとも一プレイヤーとしてその夢に参加できることを嬉しくも思っていた。

もちろん、全国で名を知られる事でいつかの“彼”に会うことができるかもしれない、という期待もあったことは事実だが、でも、それ以上にその夢に向かって駆け上がっていく事は例えようもない楽しさで、テニスをしていて良かったと心から思えた時間でもあった。

 

テニスの楽しさを教えてくれたのは・・・彼。

そして、自分も心から見た夢・・・全国制覇。

 

そんな自分にとって、その夢を人探しのためだけに使っていたと手塚に思われていたのは胸が潰れるほど悔しくて、哀しかった。

・・・でも、彼がそう自分の事を思っていたのなら、自分を避けたくなるのも当然だと思い至る。

誰よりも、その夢を大切にしていた彼だから・・・

 

 「君ほどではないかもしれないけれど、僕も大切に思ってる。その夢を。」

内心の気持ちの揺れを押し隠し、不二はそう告げ、手塚を見上げる。

どう言葉を紡いでいいのか分からず、ただ揺るぎのない事実だけを口にして。

自分を見た瞬間、冷たく冴えた手塚の双眸が一瞬揺れたように思ったが、不二はそのまま続ける。

 「それだけはわかってほしい。」

 「・・・・・」

手塚は黙ったままだ。不二もそれ以上何も言わず、彼の前を通り抜けようとした。

 「!」

不意に右手が強く引かれ、不二は驚いて振り返る。

「手塚・・・?」

しっかりと手塚が自分の右手首を掴んでいた。

そのままゆっくりと立ち上がった彼は、今まで見たことのないほど真剣な顔をして不二を見つめる。

「・・・わかっている。」

不二の手首を握ったまま手塚が呟く。

「手塚・・・?」

その声に不二が眉を寄せる。

「お前とオレを繋ぐ物は・・・それしかなかった。」

・・・それは初めて聞く彼の声だった。呻くような、悲痛な響きを持った、声。

「てづ・・・」

「それしか・・・ないのか?」

 

不二の手首を握りしめる手塚の力はまるでそれを砕くかのような勢いで。

その渾身の力で握りしめられた手首から伝わる痛みに不二は思わず顔を歪める。

・・・痛みにしびれた手は徐々に感覚を失い、指先からその力を奪っていく。

やがて完全に力を失った指先から舞い落ちたプリントは、床をすばやく滑って不二から離れていく・・・

 

次の瞬間、激しく腕が引かれ、そのまま息もつけないほどに不二は手塚に強く抱きしめられた。

「不二・・・」

かすれた声で自分を呼ぶ手塚のその声の響きの切なさに不二は息をのむ。

不二の耳の奥で何かが砕けるような激しく鋭い音が幾重にもこだましていた・・・






すぐ戻る、と言った不二はなかなか戻ってこず、リョーマは暇を持て余していた。

 “何、やっているんだろう?”

まさか帰ってしまったわけではないだろうが、それにしても時間がかかり過ぎる。

 “やっぱり、ついて行けばよかったかな?”

一緒にクラブハウスまで行こうか・・・と先ほど不二にそう言いたかった言葉を飲み込んでしまった事をリョーマは少し後悔していた。

 

 “このまま迎えに行ったら、あの人は”子供じゃないんだから・・・って笑うだろうか?“

 

ちょっと考えたが、待たされるのにも少々飽きが来ている。

じっと待たされるよりはまし、とリョーマは荷物を肩に背負うと腰を上げた・・・

 

・・・クラブハウスには明かりはついておらず、ひっそりと静まり返っていた。

 

それを訝しげに思いながらも、リョーマはその扉に手をかける。

「先輩、まだっすか?」

そう声をかけ、扉を何気なく開けて室内に足を踏み入れたリョーマはそのまま凍りついたように動けなくなった。

自分の目に飛び込んできたのは、部屋の中央によりそうように立つ人の影。

それが手塚と、彼に抱きしめられている不二の姿だと認識するまでにそれほど時間はかからなかった。

 

  「何・・・してんすか・・・?」

 

喉から出たのは、自分の物とは思えないほどの、低い、声・・・

 

  「!越前!!」

その声に2人が弾かれたように自分の方を振り返り、不二が驚きの表情と共に喉に詰まったような声をあげた。

その不二の表情と手塚の姿を見た途端、リョーマの頭の中は真っ白になる・・・

 

「・・・そういうことっすか。」

・・・自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。

「いいんじゃないすか?お似合いっすよ。」

何処から出たのか、気が付けばそんな言葉を口にしていて。

しかし、その言葉はまっすぐに跳ね返り、自分の胸を鋭くえぐった。

その痛みをこらえるかのように奥歯を噛み締める音が耳の奥で嫌な音で響く・・・

「・・・でもそんな事、人を待たせておいてしないでもらえます?」

胸は破れそうなほど高鳴っているのに、頭の芯は水をかけられたように冷たくひえていて。

その冷たさでリョーマは二人を見つめる。

「越前!」

そのまま自分に背を向けようとするリョーマに不二が悲鳴のような声を上げ、彼へと歩み寄ろうとした。

「来んなよっ!」

しかし、吐き捨てるようにそう言い放ったリョーマの言葉が不二の足をその場に釘付ける。

「・・・」

そのまま強引にきびすを返したリョーマの足が何かを踏んだ。

その拍子に足元が軽く滑り、バランスを崩した身体が不自然な形でねじれる。

その時、はからずも斜め後ろに流れた視界の端に不二の顔が映った。

“!”

その顔を目にしたリョーマははっとして思わず後ろを振り返る・・・

「・・・越前・・・」

・・・見つめあっていたのはほんの数秒の間。不二の小さな呟きにリョーマは我に返った。

 「・・・っ」

その視線を無理に断ち切るように顔を背け、リョーマはそのまま二人に背を向けると、勢いよく扉を押し開け、クラブハウスを後にする。

背後からもう一度不二の呼ぶ声が聞こえた気がしたが、もうリョーマは振り向かなかった・・・

 

 

・・・リョーマの去った後、不二はまるで糸が切れたかのようにその場に片膝をついてしゃがみ込んだ。

「追いかけなくて、いいのか?」

そのまま俯いて、固まったように動かなかった不二は、その手塚の言葉にようやく我に返った。

 「・・・」

不二はのろのろと床に落ちているプリントに手を伸ばす。

リョーマに踏まれてひどくよじれてしまったそれにそっと指を触れ、大切そうに拾い上げると、そっとそれを開く・・・

「不二・・・」

 「・・・いいんだ。」

再度同じことを言おうとしただろう手塚の言葉をゆっくりと不二が遮った。

「いいんだ。」

プリントをたたみ、先ほどのように大切そうに手の中に収めると、もう一度そう繰り返して、不二はゆっくりと立ち上がり、手塚を振り返った。

「まだ君との話は終わっていないから。」

そう言って手塚の顔をまっすぐに見る不二の顔は静かな緊張に満ちていた・・・






 その日の夜、不二は寝付けなかった。

心身ともにくたくたに疲れきっているはずなのに眠りは訪れてはくれない。

その度に、何度も繰り返されるため息と寝返り。

 “自分の選択は、間違ってはいなかった。”

何度もその言葉を胸で呟きながらも胸は重く、苦しくて、横になっていることを諦め、不二はベッドの上に起き上がり、壁にもたれた。

 

ブラインドの隙間からこぼれる薄い月の光を見ながら、また深いため息をひとつつく。

間がもてず、携帯のメモリを呼び出してコールボタンを押す。でも、繋がる前にどうしても切ってしまう。

 

その繰り返しをするうちに、夜はどんどん更けていって、今は、深夜。

話がしたかった、声が聞きたかった。

でも、たとえ繋がってもなんて話していいのか、言葉が見つかりそうになかった・・・

 

自分を刺した彼のあの氷のような視線。そして激しい拒絶の言葉。

情けなくもそれに打ちのめされ、言葉さえかけられなかった自分。

そんな自分が彼に何を話す事ができるんだろう・・・? 

 

そして・・・散々迷った挙句に一本のメールを打つ。

ぎこちなくボタンを押すと、明かりのない部屋の中、画面がうるさいくらいにキレイに光り、じきに送信の完了を告げる。

 

それを確認した不二は再びため息をついて天井を仰ぎ、目を閉じる。

 

手の中の携帯から照明光がふっと消え、部屋は月の細い明かりだけの暗闇にと戻る。

メールを打つ間、しっかりと握っていたプリントのこすれる音が、静かな部屋の中やけに大きな音で響く・・・

 

とても、長い夜になりそうだった・・・